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西 御 坊 案 内
念力門:
この門は天正十九年(1591)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので元治元年(1864)「蛤御門の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により「火消し門」ともよばれた名高い門であります。

昭和二十四年(1949)十一月西本願寺より御下附(当時輪番福井正善寺住職巨橋義信師)百余名の信徒によって京都から二百五十粁(約六十里)十六台の荷車で念仏のかけ声とともに運ばれたものです。なお、念力門の命名は西本願寺第二十三世勝如上人によって命名されました。
資料館:
本館には
☆国宝鏡御影(写)
☆六字名号(蓮如上人御真筆)
☆正信偈(蓮如上人御真筆)
☆蓮如上人御絵伝・吉崎の段
☆吉崎御坊旧図
☆念力門に関しての諸資料
☆本光坊了顕火中之図
☆吉崎の七不思議絵
☆嫁威しのジオラマ
☆その他
が展示されています。

肉付の面:
蓮如上人御滞在の頃「十楽」という村に「きよ」という信心深い寡婦がおり毎日吉崎に参詣していた。上人の教えに無理解な姑は何とか嫁の吉崎詣りを止めさせようと思いついたのが鬼面を付け威嚇するということであった。
夜道を急ぐ「きよ」の前に身の毛もよだつ鬼が現れたが、心を静め「食(は)まば食べ喰(くら)わば喰らえ金剛の他力の信はよもや食むまじ」と口ずさみ吉崎に向かった。威嚇に失敗した姑は家にもどり面をとりはずそうとするが、顔にすいつきどうしても取れなくなってしまった。
帰宅した「きよ」は事の次第を聞き姑の手をとり上人のもとに走った。懇々と他力念仏のいわれを聞く姑の口から思わず念仏がこぼれた時不思議にも面が取れたという。
中宗堂:
  中宗堂の興りは山下道場が始まりと伝えられてきましたが、近年本願寺派末寺所蔵の古文書により、判明承知することができました。それによると、江戸時代京都祐西寺の開基松下吉三郎が、吉崎の地に蓮如様をご安置する堂がないことに心痛め、延亨2年(1745)6月1日、自費をもって蓮如堂(後の中宗堂)を造営寄進したということです。  松下家先祖一族は吉崎の隣村浜坂の出身で、北前船を所有する豪商として代々熱心な浄土真宗の篤信門徒でした。しかし、その後蓮如堂は二度も罹災焼失しました。現在の建物は昭和45年(1970)正面十四米奥行十七米の重層造として再建されたものです。
   


本堂:
大きさ十一間四面総欅材による紫宸殿造延宝六年(1678)に建立し寛政七年に焼失寛政九年(1797)に再建され今日に至っています。

文明七年八月(1475)蓮如上人吉崎御退出の後、幾人かの弟子たちによって遺跡を守り又道場が設けられました。
その内、山下道場が発展したものが今日の吉崎御坊だと伝えられています。堂内には本尊阿弥陀如来を安置し極彩色の彫刻によって荘厳されています。





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