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『香樹院語録』六~

六。越前湯の尾峠にて御泊りの夜、仰せに

 聞いたものは知って堕ちる。聞かぬものは知らずに堕ちる。知っても知らいでも、皆堕ちる 1。浄土参りは信心一つじゃと仰せられ候。 2

   七。歌六首

上宮太子御殿の左右に櫻と萩とをうえくれける心を
 春秋はさくらと萩をそのままに
     雨にそそぎて花たてまつる。
    萩未綻
 秋きぬとまちつるほども久しきに
     ほころびかぬる萩のはつ花。
    無 題
 念仏の声だに口にたえせずば
     御名よりひらく信心のはな。
    同
 助くるぞための母のよび声の
     今ぞきこえし南無阿弥陀仏。
    同
 思うことかなわねばこそ嬉しけれ
     かなわぬだにも厭われぬ世ぞ。
    同
 往生を願う心にかわりなき
     たのしみうくる今日のうれしさ。

八。法を聞く時と聞かぬ時と

 信を得たればとて、聞いて居る時と聞かぬときとは違うほどに。その聞いた時の有難さを思い出して、喜ぶのに少しもかわりのないのが信を得たのじゃ。
  (香山院龍恩講師註して曰く、御馳走たべて居るときと、家へ帰って居るときとは、同じかろう筈はない。思い出しても甘かったと思うばかり也、と。)

 人毎に聞く時は難有う思うが、その座を去れば、なくなると云うことなれども、いよいよなくなりて仕舞ならば、信を得たではないほどに。
  (香山院師これに添えて曰く。さっぱりなくなりはせぬ筈なり。)

Notes:

  1. 聞いたものは知って堕ちる、というのは、不可思議の仏智の救いを我が物にしようとするから堕ちるという。これを自力ともいふ。
  2. こちら側に信心が全くないから如来のご信心一つの救いであるという意。

『香樹院語録』四~

四。心安楽法(こころ-あんらくのほう)

一。寸もながし尺もみじかし。世の中は、〔このように〕思いくらべば心安楽。

一。人生五十年 1、人のよいところは五十迄なり。その上は、子孫につかわれ世間につかわれて、もはや楽みとてはなし。いつまで居ても同じ浮世なり。さのみ残り多きことなしと思えば心安楽。

一。寿命は聞法のためなり。五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく 2迄の命を得て、仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

一。福は眷属 3にあり。人間の福徳にも限りなし。また貧しきにも限りなきもの也。一日働きて一日暮らし、病をうけても誰れ養うてくれる者なきもあり。かわるがはる看病してくるるは大なる福分なり。足ることを知れとは、仏の遺教(ゆいきょう)なりと思えば心安楽。

一。道は恕恩(じょおん)にあり。恕恩と云えば想いやること也。人の心の食い違いは常のことなり。男と女と、年寄と若者と、賢いものと愚なものと、達者なものと病人と(つい)に食い違うべし。向うの方え(もっと)もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也 4。この想いやると云う一つを以って、あらゆる道をつらぬくと云うは、孔子様の教なり 5。我が心かなはずとも、向うの身になれば、尤もじゃと思えば心安楽。

一。宝は念仏にあり。現世に無量の徳を得て、後に浄土に生るる因となる、功徳このうえなき宝は、南無阿弥陀仏なり。この念仏を称えられぬ身の上もある。然るに、朝から晩まで称えても差しつかえなく、笑いそしる者もなし。よくよくの御慈悲なり。深き宿縁なり。生死をはなるる時節到来と思えば心安楽。

五。信ぜずとも

 尾張神尾のおこう、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く帰って参ります、と申し上げたれば、
 行くなら行け、仏法が旱魃(かんばつ)するぞ。
と仰せあり。女、空恐ろしくなりて自然と帰る心も止まりぬ。其の後、同女に対せられて、
 後生大事となり、骨折って聞くなら、信ぜずに死んでも、如来さまは、一度は生死を離れさせて下さるる程に。 6
との仰せなりき。

Notes:

  1. 織田信長が好んだという幸若舞「敦盛」に、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」とあるによったのであろう。「人間(じんかん)五十年」とは、天上界の下天(化楽天)の一昼夜は人間界の50年に当たり、それにくらべればはなかいものであるという意。
  2. 心づく。わかるとか気がつくという意。
  3. 眷属(けんぞく)。元は仏に随う者の意であったが、ここでは親族を指す。
  4. あなたの言うことも尤もである、といったん承諾し肯定する思いやりを持つことで腹立ちは小さくなるという意。
  5. 『論語』に、
    子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。
    子貢、問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
    と、《恕》を、思いやりであるとする。論語 衛霊公第十五
  6. 『西方指南抄』/中本の法然聖人の「十七条御法語」に、「第二十の願は、大綱の願なり。係念(けねん)といふは、三生の内にかならず果遂(かすい)すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。」
    と、ある。第二十願は、
    原文:
    設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚。
    読下し:
    たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
    現代語:
    わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

    と、あり、ここでは第十八願の信が受け容れられなくても、第二十願の果遂(=果たしとげる)の願の念仏によって三生の内には必ず往生するという意。

『香樹院語録』 二~

二。表裏の不相応

 法話を聞く僧に盗人(ぬすびと)あり、また俗にも盗人あり、其の故は、高座の(かたわら)に居ながら、信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、我が身 法談の得分 1にしようとかかる。是れ盗人なり。俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に仏をだます。その故は、仏法者らしき顔して参詣し、諸人にほめられようと思うは、是れ諸人をだます也。僧の前に出で、口に綺麗に云いならべるは、僧をだます也。しかしてその心中は、みな仏をだまして居る也。これ仏法の盗人なり。

三。心得たと思うは心得ぬなり

 ある人、私はいかほど聴聞致しましても、どうも、つかまえ所 2が御座りませぬ、と申し上げたれば、仰せに。
 そうであろう。おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ。 3

Notes:

  1. 得分(とくぶん)。もとは自分の領地からの年貢を指す、ひいて利益の意をあらわす。ここでは他の坊主の法話の内容を盗んで自分の法話に利用しようとして聴聞すること。
  2. つかまえ所。つかみどころに同意。聴聞の内容を理解して判断する手がかりとなるところ。ここでは聴いて判ろうとする自分の思いに捉われている。
  3. 『蓮如上人御一代記聞書』(213)に
    一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。
    現代語:
     蓮如上人は、「ご法義を善く心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。
    反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。
    弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。
    物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。
    ですから、『口伝鈔』には、「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」と示されているのです。

    と、ある。

『香樹院語録』 一。聞法の用意

一。聞法の用意

 年久しく聴聞 1いただけども。心の同辺 2たるは、過去の業報 3つよくして、又も三悪道 4にかえるしるしなりと釈尊の説き給える金言に、少しも違わぬさまにて、まことに悲しく覚え候。このうえは、行住坐臥、念仏をこととして 5、御化導 6を、火の中をすぐる心地 7して、我が心をへりくだりて、恭敬尊重の思いより、ひとすじに聴聞申すべし。御慈悲にて候間まことの信はえらるる也。

Notes:

  1. 聴聞(ちょう-もん)。聴も聞もきくという意で浄土真宗では一番大切な行為。聴は能動的に〔きく]ことであり、聞は〔きこえる〕という意で受動的な聞き方をいう。先人は聴聞を「聴けば聞こえる」と、浄土真宗のご法義は「聴聞に極まる」と示していた。もちろん、言葉を聞くというご法義であるから、法座での聴聞や御聖教を拝読することも聴聞である。
  2. 同辺(どうへん)。少しの変化もなく、同じように核心ではなく言葉の辺ばかりを巡っていること。ここでは、ご法義を聞いても聞いても領解できないこと(=概念は判るのだが自分のものになっていないこと)をいう。
  3. 仏教では自己の存在は、生まれる前の過去世になした行為の結果だとする。この過去の行為を業とし、その業によってもたらされた報(むくい)を業報という。これは仏教に於ける一種の道徳律であって、運命論的に解釈してはならない。古層に属するという仏典の『ダンマパダ』に、
    67、もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。  (悪因苦果)
    68、もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。 (善因楽果)
    と、あるように、運命論的に解釈すべきではない。
  4. 仏教に於ける、迷える生きものの存在形態を六道(六つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)とするが、その中の最下の地獄・餓鬼・畜生の三つの境界をいう。
  5. こととして、事として。大事な用件として、念仏(なんまんだぶ)を称えることを中心として生活の規範とするという意。
  6. 御化導(ごけどう)。衆生を教え導く教化という意。
  7. 『無量寿経』、『平等覚経』を取意して、『讃阿弥陀仏偈和讃』に、
    (31)
    たとひ大千世界に
     みてらん火をもすぎゆきて
     仏の御名をきくひとは
     ながく不退にかなふなり
    と、あるによるか。