『香樹院語録』四~

四。心安楽法(こころ-あんらくのほう)

一。寸もながし尺もみじかし。世の中は、〔このように〕思いくらべば心安楽。

一。人生五十年 1、人のよいところは五十迄なり。その上は、子孫につかわれ世間につかわれて、もはや楽みとてはなし。いつまで居ても同じ浮世なり。さのみ残り多きことなしと思えば心安楽。

一。寿命は聞法のためなり。五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく 2迄の命を得て、仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

一。福は眷属 3にあり。人間の福徳にも限りなし。また貧しきにも限りなきもの也。一日働きて一日暮らし、病をうけても誰れ養うてくれる者なきもあり。かわるがはる看病してくるるは大なる福分なり。足ることを知れとは、仏の遺教(ゆいきょう)なりと思えば心安楽。

一。道は恕恩(じょおん)にあり。恕恩と云えば想いやること也。人の心の食い違いは常のことなり。男と女と、年寄と若者と、賢いものと愚なものと、達者なものと病人と(つい)に食い違うべし。向うの方え(もっと)もをつけて想いやりてみれば、腹は立たぬ也 4。この想いやると云う一つを以って、あらゆる道をつらぬくと云うは、孔子様の教なり 5。我が心かなはずとも、向うの身になれば、尤もじゃと思えば心安楽。

一。宝は念仏にあり。現世に無量の徳を得て、後に浄土に生るる因となる、功徳このうえなき宝は、南無阿弥陀仏なり。この念仏を称えられぬ身の上もある。然るに、朝から晩まで称えても差しつかえなく、笑いそしる者もなし。よくよくの御慈悲なり。深き宿縁なり。生死をはなるる時節到来と思えば心安楽。

五。信ぜずとも

 尾張神尾のおこう、私は聞いても聞いても聞こえませぬから、まづ暫く帰って参ります、と申し上げたれば、
 行くなら行け、仏法が旱魃(かんばつ)するぞ。
と仰せあり。女、空恐ろしくなりて自然と帰る心も止まりぬ。其の後、同女に対せられて、
 後生大事となり、骨折って聞くなら、信ぜずに死んでも、如来さまは、一度は生死を離れさせて下さるる程に。 6
との仰せなりき。

Notes:

  1. 織田信長が好んだという幸若舞「敦盛」に、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」とあるによったのであろう。「人間(じんかん)五十年」とは、天上界の下天(化楽天)の一昼夜は人間界の50年に当たり、それにくらべればはなかいものであるという意。
  2. 心づく。わかるとか気がつくという意。
  3. 眷属(けんぞく)。元は仏に随う者の意であったが、ここでは親族を指す。
  4. あなたの言うことも尤もである、といったん承諾し肯定する思いやりを持つことで腹立ちは小さくなるという意。
  5. 『論語』に、
    子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。
    子貢、問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
    と、《恕》を、思いやりであるとする。論語 衛霊公第十五
  6. 『西方指南抄』/中本の法然聖人の「十七条御法語」に、「第二十の願は、大綱の願なり。係念(けねん)といふは、三生の内にかならず果遂(かすい)すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。」
    と、ある。第二十願は、
    原文:
    設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚。
    読下し:
    たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
    現代語:
    わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

    と、あり、ここでは第十八願の信が受け容れられなくても、第二十願の果遂(=果たしとげる)の願の念仏によって三生の内には必ず往生するという意。

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