『香樹院語録』 二~

二。表裏の不相応

 法話を聞く僧に盗人(ぬすびと)あり、また俗にも盗人あり、其の故は、高座の(かたわら)に居ながら、信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、我が身 法談の得分 1にしようとかかる。是れ盗人なり。俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に仏をだます。その故は、仏法者らしき顔して参詣し、諸人にほめられようと思うは、是れ諸人をだます也。僧の前に出で、口に綺麗に云いならべるは、僧をだます也。しかしてその心中は、みな仏をだまして居る也。これ仏法の盗人なり。

三。心得たと思うは心得ぬなり

 ある人、私はいかほど聴聞致しましても、どうも、つかまえ所 2が御座りませぬ、と申し上げたれば、仰せに。
 そうであろう。おれは、つかまえられぬように、云うて居るのじゃ。 3

Notes:

  1. 得分(とくぶん)。もとは自分の領地からの年貢を指す、ひいて利益の意をあらわす。ここでは他の坊主の法話の内容を盗んで自分の法話に利用しようとして聴聞すること。
  2. つかまえ所。つかみどころに同意。聴聞の内容を理解して判断する手がかりとなるところ。ここでは聴いて判ろうとする自分の思いに捉われている。
  3. 『蓮如上人御一代記聞書』(213)に
    一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。
    現代語:
     蓮如上人は、「ご法義を善く心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。
    反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。
    弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。
    物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。
    ですから、『口伝鈔』には、「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」と示されているのです。

    と、ある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です