『香樹院語録』 一。聞法の用意

一。聞法の用意

 年久しく聴聞 1いただけども。心の同辺 2たるは、過去の業報 3つよくして、又も三悪道 4にかえるしるしなりと釈尊の説き給える金言に、少しも違わぬさまにて、まことに悲しく覚え候。このうえは、行住坐臥、念仏をこととして 5、御化導 6を、火の中をすぐる心地 7して、我が心をへりくだりて、恭敬尊重の思いより、ひとすじに聴聞申すべし。御慈悲にて候間まことの信はえらるる也。

Notes:

  1. 聴聞(ちょう-もん)。聴も聞もきくという意で浄土真宗では一番大切な行為。聴は能動的に〔きく]ことであり、聞は〔きこえる〕という意で受動的な聞き方をいう。先人は聴聞を「聴けば聞こえる」と、浄土真宗のご法義は「聴聞に極まる」と示していた。もちろん、言葉を聞くというご法義であるから、法座での聴聞や御聖教を拝読することも聴聞である。
  2. 同辺(どうへん)。少しの変化もなく、同じように核心ではなく言葉の辺ばかりを巡っていること。ここでは、ご法義を聞いても聞いても領解できないこと(=概念は判るのだが自分のものになっていないこと)をいう。
  3. 仏教では自己の存在は、生まれる前の過去世になした行為の結果だとする。この過去の行為を業とし、その業によってもたらされた報(むくい)を業報という。これは仏教に於ける一種の道徳律であって、運命論的に解釈してはならない。古層に属するという仏典の『ダンマパダ』に、
    67、もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。  (悪因苦果)
    68、もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。 (善因楽果)
    と、あるように、運命論的に解釈すべきではない。
  4. 仏教に於ける、迷える生きものの存在形態を六道(六つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)とするが、その中の最下の地獄・餓鬼・畜生の三つの境界をいう。
  5. こととして、事として。大事な用件として、念仏(なんまんだぶ)を称えることを中心として生活の規範とするという意。
  6. 御化導(ごけどう)。衆生を教え導く教化という意。
  7. 『無量寿経』、『平等覚経』を取意して、『讃阿弥陀仏偈和讃』に、
    (31)
    たとひ大千世界に
     みてらん火をもすぎゆきて
     仏の御名をきくひとは
     ながく不退にかなふなり
    と、あるによるか。

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