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rennyosann
寺は眠っていてはダメだ!!
眠らせておく門徒も悪い。

吉崎の御山の上にある蓮如上人像。高村光雲作で12mの台座の上に立つ銅像は高さ5mである。戦時中には各地の銅像や寺の梵鐘まで金属供出のうきめにあったが、この銅像は北陸門徒の矜持のためか供出を免れた。
第8代蓮如上人は43歳の時、本願寺を継職されたが、当時の本願寺は天台宗の青蓮院下の一末寺に過ぎず困窮を究めていたといわれる。当時としては先鋭な蓮如上人のご教化は比叡山を刺激し、51歳の時、大谷本願寺は比叡山の衆徒により破却される。近江に逃れて教化を続けたが比叡山の圧迫は激しく57歳の時、近江から北陸越前の細呂木の郷吉崎の地に道場を建立された。これが今に至る吉崎御坊の濫觴である。なお、吉崎の地を選ばれたのは、興福寺大乗院の門跡であった経覚の母が本願寺の出身であり、河口庄吉崎が経覚の所領であった縁から経覚がすすめたといわれる。
越前吉崎へ居を移してからの蓮如上人は、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり民衆の中にわけ入り平座で仏法を談合された。また、お文という消息(手紙)形式の文書伝道を取り入れ、その勧化は、数年で爆発的に展開し、加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州などから民衆が吉崎へ群参するほどになった。蓮如上人の吉崎での滞在は4年ほどであったが、この時に浄土真宗の教団とての基礎が築かれたのであった。このことから浄土真宗では蓮如上人を中興の上人ともお呼びしている。
現代は宗教離れがいわれ、伝統仏教は老人相手のものと思われているが、当時の蓮如上人の教化を支えたのは、20~40代の男女がその主体であった。蓮如上人は日本がうんだ最大の教化者といわれるのだが、その教えは平易でありかつラジカルであり、まさにイノベーターとしての蓮如上人であった。それは混迷を深める現代の我々にとっても、蓮如上人の教化を聞思することにより生きた仏法となるのであろう。
なお、このサイトは、門徒による門徒のために僧俗が平座で、親鸞聖人の御同朋・御同行の精神にのっとり「後生の一大事」を聞信出来ればという蓮如さんを慕う『吉崎サポーターの会』の有志によって運営されている。